Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2014/02/16

学校と孤児院のあいだ

隊員時代に務めていたNGOが運営する孤児院(生徒は全員通いの寺子屋のような場所)が閉鎖の危機を迎えています。NGOが発足して10年。孤児院がスタートして8年。生徒数は1年前で120名ほど。小規模な孤児院です。ただ、このブログでいつも書いている通り「孤児」といってもストリートチルドレンなどはおらず、両親を亡くしていたとしても親戚に引き取られていたりしています。片親をなくした子供もふくめ、「孤児」が全体の3割ぐらいです。年長の生徒の成長とともに学年も増え、先生の数も徐々に増えてきています。けして大きくはないもののコミュニティのセーフティーネットとしての機能はかろうじて果たされている孤児院です。


その孤児院が政府から閉鎖のするようにとの辞令がきているそうです。そこで隊員活動の後日談として、すこし離れた立場から、孤児院の現状を紹介し、この警告が来た経緯を推測します。その後、この事件の構造的問題とNGOの今後を考えてみたいと思います。 
閉鎖といっても私自身あまりシリアスにとらえていません。なぜなら彼らを知っていますし、困難があったとしてもカラカラ笑いながら日々を過ごして「なんとかなるでしょ」と信じている彼らの基質を信じているからです。

閉鎖勧告
ことの発端は代表からのメールでした。彼からは定期的にメールが来ていて、(その主なものはドネーションのお願いなんですが)、今週久しぶりにメールボックスを広げると、県庁からの閉鎖要請について書かれたメールがありました。 

詳細は割愛しますが、県庁からは「学校」としての適正と質がとわれているということ。ここで、大きく2つの問題をとりあげます。

1.校舎の問題
その孤児院の校舎は建設途中でした。これは私が3年前に赴任した(2011年3月時点)から何も変わっていない。なぜ建設途中になってしまったのかを短く。

海外NGOからの校舎建設のワークキャンプが入る。
海外NGOは完成した一棟の校舎建設を提案。ウチのNGO側は2棟を主張。
話し合いは平行線のまま結局、最初から予算の関係上、未完成になると知っていて、屋根のない2棟を建設。

といったところでした。屋根はないので雨が降ると授業はなくなります。雨宿りのために屋根のある別の校舎(他の学年の子供がいる)におじゃましたりしています。

また教室の大きさの問題もあります。教室のスペースもないので一人ひとりの机はなく、あるのはベンチだけ。なので生徒たちはベンチに座って授業を受け、ノートを取るときはベンチが机になります。一般的な学校にはひとりひとり机と椅子があり、それを考慮しても勉強の環境としては不適切だというもの。


2. 人材の問題
私が離任して1年が経つので現在の状況は分かりませんが、校長先生も事務局長もいませんでした。NGOが運営しているということから先生たちは、生徒に授業をする人であると同時にNGOの職員としてワークショップをおこなったりする2つの仕事を平行して行っていました。専門の校長先生や専門の事務局長を置く金銭的余裕はない。この専門の校長・事務局長不在が学校としての適切性に抵触するようです。

勧告されるまでの経緯
さて、ここからこの警告が来た経緯を邪推します。
2013年12月は最年長のP7(小学校の最終学年)の生徒たちがPLEを受験する年でした。ただしウチのNGOは学校登録をしていないためにPLE受験は制度としては不可能。ただ、彼らは無事PLEを受験することができたようです。はたしてどういった抜け道を使ったのか・・・
今後毎年PLEを受験することになるので学校として県へ申請をしたのでしょう。その結果、校舎の現状・人材不足の現状を問題視した県庁側から閉鎖の勧告がきた。こんなところだと思います。

構造的問題
あまりにも邪推過ぎて全くの信ぴょう性のないものですが、この事件の構造的問題については正確性を伴っていると思っています。

まず校舎の問題。
この問題は「なにが未完成にしたのか、未完成のままでいられたのか」「なぜ現状校舎が未完成なのか」という問いに答えることで、見えてくると思います。結論から言うと「2年・3年先を見据えた行動様式ができないから」ということができるでしょう。校舎建設の援助が入った時点で予算を無視した建設計画は、「またどこからか援助が来るだろう」というマインドセットがあるということ。援助に過度に期待しすぎた意思決定がなされたということです。換言すると「貧困の罠」や「援助依存」につながる行動様式だといえます。「貧困の罠」の側面からでは、現状ある予算を駆使して、一棟の校舎をつくる必要がありました。そして新たなドナー探しをすることで未来への投資を行い次の校舎を建設するという道筋が罠からの脱出ルートだったはずです。しかし未来を見据えていない当時の決断は、孤児院の閉鎖という最悪の結末を引き起こしかねない状況へ導いてしまいました。また、「援助依存」の側面からこの事件をみると、その甘い意思決定をさせたのは、「またドナーが来て、建設途中のものを完成させてくれるだろう」という未来に対する甘い期待です。そしてその甘い期待をさせたのは、貧困の罠に浸らせたのは援助です。「援助の必要性」に対する議論に発展しますが、ここでは触れません。とはいえ、もう長くNGOと付き合ってくれる協力隊員はいない。来るのは1ヶ月ぐらいの期間でくる現状を知ったと思ったら帰ってしまうボランティアだけ。

とはいえ、やっぱりポッとドナーが現れたりするんですけどね。だったみんなアフリカに援助したくてしょうがないから。

次に人材の課題。しかしここではむしろ事業の大きさの問題であると思います。ウチのNGOの事業は孤児院の運営とHIV/AIDS予防啓発活動の2本柱。HIVのワークショップは毎日やっているわけでもありませんし、プロジェクトは単発なので人材を別々に確保するよりは、「先生+職員」を一緒くたにして人材を確保することで人件費を抑えることができます。孤児院運営の予算(先生たちの給料)は別のプロジェクトから引っ張ってきているということになります。つまりプロジェクト(のお金)ありきで学校運営がなされているわけです。しかし、ウチのような零細NGOには専門職としての校長や事務局長を雇う余裕はありません。孤児院運営の予算が独立していないからです。これは孤児院事業にドナーがついていないということもありますし、つきにくいということもあります。それは成果がないからということができるかもしれませんし、ドナー側もウチの孤児院の「必要性はない」と考えているからかもしれません。それ以前にうちのNGOが孤児院運営に関してのプロポーザルを書いているとは思えませんが。


孤児院は必要か
最後に根本的な問題として「孤児院は必要か」を議論したいと思います。
議論を進めるために、「なぜ必要ないのか」から始めます。まず、生徒にとってほかに通うことの出来る学校が周りにいくつもあるということ。チワンガラ村の中だけでも4つ小学校があります。しかも公立の学校であればUPE(Universal Primary Education)政策によって学費はタダです。その代わり給食費(うちの孤児院では給食なのでこの点への出費はない)がかかりますが。さらに教育の質も孤児院に比べたら断然良い。先生をしている先生が(変な言い方だが)教えているのですから。生徒がうちの孤児院に通うのは2通りの場合。1つは他の学校で留年したりしたから。これは学力の問題ですね。もう一つはうちの孤児院がHIV関連の事業をやっているドナーと協力しているから。家族や本人がHIV陽性者だった場合、少しでもケアをしてくれそうな組織が近いところにいるほうが心理的にもいいですし、実際ケアをしてもらっているそうです。しかし、どちらの場合も「孤児院」ありきで事業をする必要はないと思います。NGO職員が家庭教師やケアワーカーとして足を運ばいいわけですし、政府から「学校」として認められるよりも既存の学校を補助する形で存在したほうがいいかもしれません。しかしローカルのNGOとしての誇りがそうさせないとも思います。組織である以上見栄えの良い校舎や事務所がほしいと思うのは人間の心理ですから。

ただし、そうはいっても必要としている人は必ずいます。セーフティーネットとしての機能は絶対に必要です。今回の事件はセーフティーネットとしての機能以上の機能をもたせようとした結果だと言えます。ですから様々な機能を持つ機関があるコミュニティで自分たちができる事業なにか、コミュニティのなかで必要とされている機能はなにか。何の機能が足りないのか。NGO自らが問いかける必要があります。

今後のことを考えるなら人材を増やし事業拡大路線に進むか、孤児院事業をセーフティーネットとしての機能にしぼるか。どちらかに針はふれるようなきがしています。ただこれは先進国的な見方なので、なんだかんだ言って現状維持になりそうな気がします。そしてコミュニティ内で各機関がゆる〜く機能を重複しながら存在しているのも悪くはないと思います。

そんな元職場の現状でした。

長文呼んでいただいて感謝します













2013/10/05

協力隊員を振り返って(ナルバーレ廃刊)

協力隊員としての活動が終わって6ヶ月がすぎた。

「協力隊員」という肩書きから綺麗さっぱりと離れるために冷静に振り返りたい。今回は2本柱の一つNGOスタッフとしての活動を振り返ることにする。 





目次
1赴任当初の不必要性の認識
2スタッフ定着率から得た活動のヒント
3スタッフトレーニング
4トレーニングの期待効果と実施
5リサーチの不実行
6帰国後半年に振り返って


赴任当初の不必要性の認識
 赴任当初HIV/AIDS予防啓発活動ワークショップの手伝いと称してつれ回してもらった。次第に「ついて回る」だけでは自分が満足できなくなってくる。ついてくだけでは学びはないし、時間の無駄だと思いはじめた。なによりそのワークショップはうまく回っているのだ。手出しするところはないように見えた。海外の大手NGOの支援を受けて行われているワークショップで金銭的支援だけでなくプログラムそのものがパッケージされたものとして送られてきている点も理由としてあると後々理解した。

 配属NGOの外側で活動をして村人との接点に切望していたボクだったが、HIV/AIDS予防啓発活動以外のところで自らプログラムを立ち上げて行うまではできなかった。
 理由は2つ。まず時間的制約。生徒の面倒を見ながら村人と関わっていくことは難しかった。そして二つ目は(こちらが主な理由)代表の許可を得られなかったこと。組織の人間である以上その組織の名をしょって活動することになる。ボク(協力隊員として)は「村人と直接関わる」ことを最優先にしていて、NGOのターゲットグループや活動分野と関わる必要はないと思っていた。NGOの幅や機会・ポテンシャルを広げるという意味でも「外部者が内部者になる」ことのメリットはあるんじゃないか。ただ、その「NGOのターゲットグループや分野と関係のないところで活動する」というところに代表はひっかかりを感じたらしく、話し合いは平行線をたどった。最後まで。




スタッフ定着率から得た活動のヒント

赴任して1年と3ヶ月が過ぎた頃、セレスティン(最も信頼していた同僚)がうちのNGOを離れていった出来事を機に「個人の持つ暗黙知やスキルがその組織に定着・システム化する前に(形式知になる前に)、その個人は組織を離れてしまう」のではないかという仮定にいたった。

だったら、組織ではなく、個人に何か残る形でアプローチするほうが合理的だ。ボクは村人と直接関わることをあきらめ同僚の能力を上げることを考えた。

「何を?」の前に、ボクのNGOの問題点を上げてみる。
・継続したドナーを得ることができていない。プログラムベースの単発ドネーションばかり(ウガンダのローカルNGOはどこもこんなかんじだが)
・スケジュールどおりに物事が進まない(これはウガンダどこでもいっしょ)
・印象だけで物事を語る同僚たち
・専門性の欠如。「HIVのことを知っている」と言っても専門家ほどの知識を持っていない。にもかかわらずそのプロジェクトを進めないと行けないジレンマをもった同僚たち

そして、これから先のNGO業界の展望をウガンダに照らし合わせて考察してみる。現在の南米のトレンドがこの傾向にあるようだ。
・ウガンダへの援助総額額は減る
・減少したドネーションはより大きなインパクトを作ることのできる組織へと注がれる(その組織は受取額を増やしていく)
・プロジェクトベースの援助ではなく年数などの期間によってパートナーシップが築かれる。
・援助分野でみると意思決定プロセスへの参加(マイノリティの政治参加など)。社会経済権利や経済成長分野へ資金が投入される(BOPビジネスなどがこれにあたる)
・ある程度の経済成長を遂げるとNGOは「貧困」問題から「不公平」問題解決へとシフトしていく。

そんなトレンドがウガンダへ訪れた時に、ウチのNGOは生き残っていくことができるか。HIV/AIDSという専門分野は間違っていない。しかし専門性が必要であり。今後の生存率は極めて低い。ウチのNGOを弾力のある組織にするに何が必要か。
・ドナーを獲得する能力
          ロジカルに物事を考えられる力
          説得力のある計画書の書き方
・村の現状を引き受けて、ニーズを引き出す力
          リサーチ手法と問題点の洗い出し方法

スタッフトレーニング



<計画書トレーニング>
     コンテンツから説得させるための文章の構造などを紹介。さらにロジカルで説得力のある計画書には数字が必要です。じゃあ数     
     字の採ってき方(そして先進国NGOが一番求めているものですよ)を勉強しましょう。

<リサーチトレーニング>
     事実質問で問題の本質をつかみつつ、集めたデータを整理・精査して、計画書に取り入れよう。

トレーニングの期待効果と実施 
 トレーニングが終わるとコネやツテ以外の方法でドネーションを引っ張ってこれる人材になってくれるだろう。また、彼らが何かやろうと思ったときに「何から始めたいいかわからない」状態から「よし、これから始めよう」という状態になっていると予測した。物事を動かす時のファーストステップを手に入れられると。副次的な効果としてさらには自分の住む地域の問題点(問題意識)を得ることができ、NGOワーカーとしての軸を持ってもらえるんじゃないか。と期待した。

 計画書のトレーニングは全5回。グループワークでやってみたり、実際の申請用紙を使ってリアリティをもって考えることができるようにしてみた。「きたい人だけ、来て。強制はしないから。」そう言って始めたトレーニングは13人いるスタッフのウチ5人は確実に来てくれた。そして信頼できるスタッフを2人、手に入れることができた。これが大体去年の7月から12月までにやった活動。計画書のトレーニングが終了した時点で任期が残り3ヶ月で実際にリサーチをするには少々スケジュールは厳しかった。しかしやる気のある同僚もいるしできると思っていた。

リサーチの不実行
 リサーチを行うための準備はすべて終了していたが、結果的にリサーチは行わずに任期を終えることになった。質問票の作成、県庁への許可申請書、予算書の作成、訪問先の村の特定(500農家)。実行できなかった理由も2つある。まず時間。ボク自身に時間はあったが、同僚たちになかった。ウガンダ人の言う「時間がない」である。日本人的には「ある」のだが急がせなかった。急がせなかったのはボクが尻を叩いて急がせたところで学びにはならないだろうし、集めたデータの分析まで教える時間があるとは思えなかったから。そして最大の要因またまた代表とのすれちがい。これも理由はNGOの外側で活動する時にストップがかかったのと同じ理由で代表の許可がおりなかった。実は赴任後、半年でリサーチの計画を立てていた。そのときは金銭的理由でNGOが予算を出せないということで動かなかった。今回もおなじく金銭的理由でストップがかかりそうだったので、すべてボクのポケットマネーで行うと公言してからは金銭的トラブルはなくなった。ちょっと笑ってしまうエピソードなんだが、ボクがリサーチをストップさせると決めた時、同僚たちに「準備はすべて整ってる。あとはやるだけだよ。自分たちでやってみるのもアリだよ」と言った。すると熱心に参加してくれた同僚が「でもお金がない」と。

帰国後半年に振り返って
 同僚たちに伝えたかったこと。それは「お金がなくても、できることはあるよ」。全く伝わらなかっただろう。彼ら自身っても難しい立場にいる。というのはNGOの職員であり村人であるから。村人であるがゆえに主観的になりがちで、それがNGOの職員として一歩引かなければならない場面で引くことを許さない。だから彼らの書く申請書は20ページの長さで前半10ページはNGOの歴史や組織について延々と書かれている。もちろん文化背景がそうだからという理由付けもできるが、援助の世界は欧米の文化によって支配されている。それがいいことなのか悪いことなのかボクにはわからない。しかし de factoである。

 代表に関して彼はボクのボトルネックだった。反省点は今では明確だ。ボクと彼との間で何一つのゴールやビジョンが共有されていなかったことだ。例えば高校のサッカー部の部長と副部長がいたとする。部長は県大会ベスト8目標にしていて、一方副部長は優勝をだったとする。この目標の非共有は考え方や行動に差異を産み、相互不理解へとつながっていく。
 ただ、共有しようとしてできたか?それも難しいと今でも思っている。代表は組織の存続を第一に考えていたし当然「お金」を一番に考えていた。もちろんNGOの目指すビジョンを作るために。一方ボクはといえば二言目に「金」という代表と理解し合えないと決つけて「ドネーションを得るために、孤児の生徒たちを利用している」と嫌悪していた。今でもNGOの子供たちがうつったきれいな写真は好きになれない(ボクもブログに載せたりする矛盾をもちながら)。ボクはもっと”きれいな”国際協力の姿を想像していた。つまり代表は現実主義的でボクは理想主義的だったと言い換えることもできる。ここには正しいも悪いもない。「お金がない」という現実を前に「金がなくてもできることはある」と言っても説得力はない。それを実現しようと試みたが2年では短かったし、失敗に終わったといってよい。そして失敗は必然だったともいえる。

 


 「失敗」であった目標点に達することができなかったということで、ゼロではなかった。失敗ゼロではなくしてくれて、今でも前向きにとらえることができているのは同僚のおかげでだ。彼らに感謝してもしきれないくらいだ。生活面でも助けてくれたし、ボクのやることを助けてくれたり助言をくれたりと彼らなしにはさっさと帰国していただろう。今でも連絡を取る元同僚は何人かいて、かけがえのない出会いをもたらしてくれた隊員活動だった。




 失敗を回避するために妥協をしてドネーションを引っ張ってきていたらどうなっただろう?感謝されるだろう。NGOの命ものびるだろう。しかし根本的な解決にはならない。今思うのは「協力隊員ごときが組織や国際協力の根本的な解決はできない」と言うこと。配属先NGOの問題にしろ国際協力全体の課題にしろ、2年で好転できるほど要因は浅いところにない。
 2年間できるかぎり考え、行動し、待った。失敗はしたが得るものは多く、かけがえのない経験をした。経験をしただけでは何も変わらない。これからはこの経験を振り返り考え、国際協力全体の動きや考えと照らし合わせながらよりよいものを模索していく。そうすることでこの2年間の失敗の意味が出てくるの。失敗はただ失敗である。しかしそこから学ぼうとさえすれば、必ず価値あるものになってくれる。




これにて、Nalubaaleは廃刊となります。ここまで読んでいただいた方々本当にありがとうございました。これからも国際協力の模索を続けます。もしご興味がありましたら近々リリースされる新しいブログへ足を運んでいただければと思います。このブログでもアナウンスさせていただきます。2年と半年ありがとうございました。

2013/09/29

タンザニア旅行

隊員の時にしかできない旅行「他国の隊員の任地を巡る旅」



そう思って、タンザニアへ。


ザンジバル



 奴隷貿易時代はその拠点としてさかえ、それよりもはるか昔はエジプトが、マスカット・オマーンが象牙や香辛料を求めて往来した島です。サンジバルの語源は”ザンジ”。ペルシャ語で「黒人」を意味する言葉。ペルシャ語が語源という時点で歴史の長さを感じさせます。そして、東アフリカのスワヒリ文化圏の拠点となった土地でもあり、スワヒリ文化はイスラム文化の影響を色濃く残しています。スワヒリ文化圏は今のソマリアのモガディシュやキスマヨあたりからモザンビーク中部のソファラあたりまでの非常に縦長な文化圏だったとか。しかし反面、内陸へはたかだか30km程度という海岸沿いに集中した文化だったとか。スワヒリの語源は”サワーヒル”。アラビア語の「海岸、河畔」を意味しています。

 その文化圏の中心地だったザンジバル。青い空と碧い海。白い街がある島。海を見るのは1年11ヶ月ぶり。やっぱりほっとします。そしてコーヒー屋さん・カフェがとても多いところにタコの足を揚げたものやココナッツを売り歩いている売り子もいる。南国空気とアラビアの文化とアフリカ風土がごちゃ混ぜになった場所はとても魅力的でした。

さて、ザンジバルでは理学療法士隊員と井戸掘り隊員の活動を見学。
二人とも問題を抱えつつも少しづつ前に進めようとしていました。そして二人のザンジバル文化への適応加減も驚きでした。
何やら打ち合わせ 細かいコミュニケーションが成功の鍵

地下16mでの井戸掘り作業

本土へ向かい、村落隊員と自動車整備隊員の活動を見学。
二人ともスワヒリ語を巧みに使い仕事をしていました。そして二人の仕事に対する真摯な姿勢に尊敬しました。


スワヒリ語で指導しながら一緒に作業

隊員が建設指導をした道。以前はただの獣道だった



ウガンダとは全く違う景色に圧倒されるばかり。この広さはウガンダにはありません。



 タンザニアの行政上の首都ドドマから4時間ほど離れたコンドアの岩絵遺跡群まで足をのばしました。世界遺産の中でも人の訪れは少ない方だと想像できます。だってKiwangala村と大して変わらない村の規模。そしてアクセスの悪さ・・・それでも行ったのは人類発生の地のロマンを感じたいから。



 

 帰国した今振り返ると、他国の隊員活動を拝見することは貴重な体験だったと実感します。「なぜ自分が活動を失敗したのか」「うまくいっている人は何がそうさせているのか」そんなことを客観的に見れた旅でした。国が同じウガンダ隊員の活動を見ることも大きな勉強でしたが、そういった時は「ウガンダの文化・ウガンダ人」側から自分の活動や発言方法などを考えがちになります。しかし、国という共通項(東アフリカは残る)が無くなると「隊員活動の手法や姿勢」という自分たち側から活動を振り返ったり自己評価することができました。「そしてそれはこれから国際協力活動をする時に必ず役にたつと信じています。

2013/09/22

ルワンダ旅行

半年以上前のことなのですが・・・書いて公開していなかったので、遅ればせながら公開させてもらいます。









隣国ルワンダへ行ってきました。

家から陸路で数時間なのですが、飛行機で。飛行機もエンテベからキガリまで40分程度。
「飛んだ」と思ったら「降りだした」飛行時間。
そして機内で出たビールは500ml。
着陸ギリギリになんとか飲み干した次第でした。

さて、首都キガリはとてもキレイ。清掃委員が四六時中掃除をしているよう。
しかもルワンダのすごいところはプラスチックバック(ビニール袋)が一切ないこと。お店は全部紙袋だし、出入国時はプラスチックバックを回収されることも。


そんなキレイなルワンダ。ルワンダというと、90年代の大虐殺が記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。映画の「ホテルルワンダ」や「ルワンダの涙」がそうですね。大学生の頃「ホテルルワンダ」を見たときの衝撃は凄まじいものがありました。





実際ジェノサイドミュージアム(虐殺記念館)は首都のほか、各地にあります。滞在日数も短いことから、ボクは首都の記念館のみ足を運びました。
展示物はキレイにまとめられており、被害者の頭蓋骨や衣服の展示、ジェノサイドまでにいたった経緯を説明するパネルなど丁寧な内容。長崎の原爆資料館に近いです。それでも映像や写真が残っており、パンガ(ナタ)で人が人を殺す映像(遠目なので生々しくはあまりない)や見るも無残な死体の写真なども展示してありました。実際白骨やホルマリン付の遺体を残している教会もあるそうです。

ルワンダは数年前に公用語がフランス語から英語へ変更されました。それでも日常的にはもうひとつの公用語であり現地語のキンヤルワンダ(Kinyarwanda)が使用されこれは隣国のウガンダの多数はの言語、ガンダ語やルワンダ国境沿いに住むニャンコレ族が使うルニャンコレ(Lnyankole)とは似ても似つかない別の言葉。バスに乗ったはいいが行き先をコンダクターに伝えられない(笑)そしたら、隣に座っていたルワンダ人女性が流暢な英語で助けてくれたり。ウガンダよりもいい国と思わせられてしまいます。


同期の活動を見にウガンダ国境沿いのニャガタレ(Nyagatare)まで足を伸ばしました。キガリから約3時間。美しい湖と丘がボクを寝かせてくれません。しかも、バスの隣に座ったおじさんが協力隊員の同僚だとか。世界はせまいものです。

ニャガタレの村落隊員は地元の特産品のハチミツに目を付けて、組合と一緒になって質の高いハチミツの生産に成功。彼のすごいところはこれをすぐにお土産にするのではなく、地元の人たちで消費することを1番の目標にしていたこと。普通ならすぐにお土産や海外旅行者むけにつくりたいところですが、飛躍せずに活動している。(現在は帰国)



ウガンダの国境沿いという土地でもあるせいか、村人はガンダ語を知ってたりします。「子供の頃、ウガンダに亡命してたんだよー」とか「ラカイに住んでたんだ」というのを当事者から聞くと急に「亡命」とか「難民」とかっていうコトバが現実の匂いをかもし出してきます。TVや本では絶対出せない匂いです。そんな彼らもボクと久々にガンダ語をしゃべれて嬉しそう。「亡命」というコトバを介して想像するウガンダでの生活は不安が常にあったのかな、なんて想像しますが多分そんなになかったんじゃないだろうかとも想像する。だって「今」を大切にする(しか見れない)アフリカ人だから。

そしてこの地方はウガンダ側の国境に住むニャンコレ族と似た特徴を持っていました。まずはコトバ。ルニャンコレをしゃべれる人がいるよう。そして食文化。この地方では牛は食さないらしく山羊が主に食されているとのこと。ボクのニャンコレ族の同僚も牛は食べないんだとか。さらに仕事。この地方の人々は牛追いをして生活をしているらしいのですが、ウガンダのニャンコレ族もこの特徴を持っています。ウガンダでは「ニャンコレ牛」はブランド化してあり、ニャンコレ族はチーズなどの乳製品を生産しています。国境と民族を考えるとアフリカの歴史の複雑さと奥深さを感じます。

もちろん今現在のルワンダに問題がないわけではないです。キレイな街、静かな国民の影には「他者に民族を聞いてはいけない」法律や昼夜問わずパトロールをする警察。ルワンダ隊員曰く「臭いものには蓋をする」方法で過去の失敗や悲しい事件を忘れようとしています。そして、その危うさも感じました。隠したり見ないようにすることはいい。だけど隠しきれなくなったとき、目を背ききれなくなったときの危うさです。

でも、こうも思うのです。今だに目を背けられずには生きては行けない出来度とだったのだと。部外者が「目を背けずに」なんて口が裂けても言えません。

2013/03/11

Requiem for the moment



I am sitting in a sedan type taxi which take 10 passengers to my village. On my laps, there is a lady's butt. Today, there are 6 passengers, including me, on the back seat. Fortunately, all of us are thin. 

Some times, I feel fear.  I do not fear having a car accident which I would get serious injury. I am afraid of disappearance. Sometimes, I sink into a sens of which I already die long before, I vanished away from this world long before, or came into the  parallel world. 

It is brought by the earthquake of 3.11.2011. I was in Fukushima riding on a bullet train. When the train attempted emergency stop, it had shaken terribly. I thought I die. Strangely, I hadn't afraid of die. I accepted my end. Thus, I can't believe tomorrow when the sense catch me. Some people say "We got to see tomorrow". "We can rebuild it". "We have to overcome the lament" That's true, but I can't just believe those words when the sense catch me. I know it's a fake sense. I alive indeed. Tomorrow will come in reality. 

Nevertheless, sometimes I cannot hold my motivation for live and maturity. This is an unwelcome thought considering the real life because it bring troubles into it. 

I don't know whether I dead or alive. 

One thing I'm sure is that I have to live with this scare sense together till my actual end. That is my doom, which I was there at that time. 

When I am tired, I fall into the sense. 


PCの入ったバックを抱えてタクシーに揺られる。膝の上には別の乗客が座っている。今日は後部座席に6人だ。幸運にもみんな細い。

時々怖くなる。何を?事故。10人もセダンに乗って事故したらアバラぐらいは簡単に折れるだろう。でも事故よりも怖いものがある。
生きている感覚がない。

なにか別の平行世界に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。

時々なるこの知覚。やはり震災で「死んだ」と受け入れてしまったからなのだと思う。一度シを受け入れた。生きていればこそ、「明日に目を向けて」なんて思うかもしれないが、今日のような知覚の時は明日がないと本気で思ってしまう。だから目標に向かってアレコレをしようというモチベーションにかける。平行世界に来たわけでもないし、明日がこないはずはないのにそう知覚してしまうことは、実生活ではマイナスでしかない。

怖いのだ。

生きているのか、居なくなってしまっているのかわからない。

この恐怖と生きていかねばならぬのだろう。それがあの日、あの場所にいたボクの宿命のようなものなのだろう。

疲れている日ほど、この知覚に襲われることが多い。